「もしあの日、歓迎会に参加していなかったら。」
そんなことを考える夜が、何度あっただろう。
人生には、たった一日で大きく変わる瞬間がある。
私にとって、それは入社して間もない頃に開かれた歓迎会の日だった。
当時の私はシングルマザー。
離婚して数年が経ち、恋愛なんてもう自分には関係ないものだと思っていた。
子どもを育てること。
仕事を覚えること。
毎日を必死に生きることで精一杯だった。
「もう誰かを好きになることなんてない。」
本気でそう思っていた。
だから、この日の出来事が、自分の人生を大きく変えるなんて想像もしていなかった。
新しい職場、新しい生活
新しい会社に入社して数週間。
まだ覚えることばかりで、毎日があっという間だった。
慣れない環境。
新しい人間関係。
家に帰れば母親。
会社では新人。
気が張りっぱなしの毎日だった。
直属の上司だったのが彼だった。
仕事はとてもできる人。
誰にでも優しく、部下を頭ごなしに叱ることもない。
職場では笑顔をあまり見せないタイプだったけれど、不思議と周りから信頼されていた。
もちろん、既婚者だということも最初から知っていた。
デスクに置かれた家族写真。
何気ない会話の中で出てくる奥さんや子どもの話。
だから最初から恋愛対象として見ていたわけではない。
「優しい上司。」
私の中で彼は、それ以上でもそれ以下でもなかった。
歓迎会の日
その日は、私の歓迎会だった。
仕事が終わり、お店に向かう。
みんながお酒を飲みながら笑っている。
職場では見られない表情ばかりだった。
彼もその一人だった。
普段は真面目な印象しかなかったのに、お酒が入るとよく笑う。
部下の話にも耳を傾け、一人ひとりに気を配っていた。
「こんな人だったんだ。」
そのギャップに、少しだけ驚いた。
私も緊張がほぐれ、いつもよりたくさんお酒を飲んでいた。
シングルマザーになってから、お酒を飲む機会はほとんどなかった。
久しぶりの飲み会。
楽しい雰囲気。
安心感。
気づけば、自分でも驚くくらい酔っていた。
帰り道の記憶
歓迎会がお開きになり、みんながそれぞれ帰っていく。
そこから先の記憶は、ところどころ曖昧だ。
後から彼に聞いた話では、私はかなり酔っていたらしい。
まっすぐ歩けないくらいに。
一人で帰すわけにはいかないと思った彼が、送ってくれたという。
そのことすら、私は翌朝までほとんど覚えていなかった。
翌朝、知らされた事実
目が覚めた瞬間、頭が割れるように痛かった。
「あれ……?」
昨日、どうやって帰ったんだろう。
スマートフォンを見ると、彼からメッセージが届いていた。
「体調は大丈夫?」
その一文を見た瞬間、嫌な予感がした。
会社へ行くと、彼が少し困ったような顔で笑った。
「昨日のこと、覚えてる?」
私は首を横に振った。
「……全然覚えてません。」
すると彼は少し言いにくそうに話し始めた。
「かなり酔ってたよ。」
「何度も帰らないって言って。」
「俺も何度も今日は帰ろうって言ったんだけど……。」
その先を聞くのが怖かった。
彼の話を聞く限り、私は酔った勢いで何度も彼に甘え、引き止め、自分から距離を縮めてしまっていたらしい。
彼は何度も止めようとしてくれたという。
それでも私は聞かなかった。
翌朝、その話を聞いた私は、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。
そんなことをする人間じゃない。
そう思っていたのに、お酒に飲まれた私は、自分でも知らない自分になっていた。
謝ることしかできなかった
「本当にごめんなさい。」
その言葉しか出てこなかった。
職場の上司。
しかも既婚者。
一番あってはいけないことだった。
彼は少し困ったように笑って、
「俺も止めきれなかったから。」
とだけ言った。
責めることもなく、怒ることもなく。
その優しさが、余計に胸を苦しくした。
「あぁ、最低だ。」
家に帰ってからも、その言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回っていた。
もう仕事を辞めたほうがいいんじゃないか。
顔を合わせる資格なんてない。
そう本気で思っていた。
それでも届いた一通のLINE
その日の夜。
スマートフォンが震えた。
画面を見ると、彼からだった。
「今日は気にしすぎなくて大丈夫。」
短い文章だった。
普通なら、それで終わるはずだった。
謝って。
終わる。
そう思っていた。
でも私は返信した。
「本当にごめんなさい。」
すると彼から返事が来た。
「もう謝らなくていいよ。」
そのやり取りをきっかけに、私たちは毎日のようにLINEをするようになった。
最初は昨日のことを気にしないようにという気遣いだったのかもしれない。
仕事の話。
他愛もない雑談。
今日あった出来事。
気づけば、それが毎日の習慣になっていた。
このときの私は、まだ知らなかった。
あの日の出来事をきっかけに始まったこの関係が、何年も私の心を縛る恋になることを。
そして、「離婚するつもりだから。」
その一言を、私は心から信じてしまうことになるなんて。
次回予告
毎日LINEをすることが当たり前になった頃、彼が突然こう切り出した。
「ちゃんと話しておきたいことがある。」
そして彼は静かに言った。
「妻とは、もう夫婦として終わってる。」
その言葉を、私は疑うことができなかった。
【第2話】「『離婚するつもりだから』その一言を、私は信じてしまった。」

